エデュ・プラニング社会課です。
11月4日は、1946年にユネスコ憲章が発効し、国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)が正式に発足した日です。
2026年、ユネスコは設立から80年を迎えます。
ユネスコといえば「世界遺産」を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
今回は、その世界遺産が生まれるまでの道のりをたどってみます。
「人の心の中に平和のとりでを」
ユネスコは、第二次世界大戦の反省から生まれた国際機関です。
1945年11月に採択された憲章の前文には、よく知られた次の一節があります。
「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
教育・科学・文化を通じて互いを理解することが平和の土台になる――。
これがユネスコの出発点でした。
世界遺産の原点の一つはナイル川にあった
ユネスコにとって大きな転機となったのは、20世紀半ばのナイル川流域での出来事です。
エジプトではナセル政権のもと、ナイル川の氾濫を抑え、農業用水と電力を確保するため、アスワン・ハイ・ダムの建設が進められました。
しかし、ダム建設によって巨大なダム湖が生まれ、古代エジプトのヌビア遺跡群が水没してしまうおそれがありました。
その中には、前13世紀のファラオ、ラムセス2世(ラメス2世)が築いたアブ・シンベル神殿もありました。
1960年3月、ユネスコが遺跡の救済を世界に呼びかけると、多くの国が資金や技術を寄せ、国際的なキャンペーンとなりました。
岩山を掘って造られた神殿を1000個以上のブロックに切り分け、元の位置より約65メートル高い場所へ組み立て直す工事が1964年に始まりました。
そして1968年、神殿の「引っ越し」が無事に完了したのです。
ちなみにこの神殿には、古代エジプト人の天文学の知識を利用した驚くべき仕掛けがありました。
1年に2度、ラムセス2世の誕生日と即位日にあたるとされる2月21日と10月21日に、朝日が神殿の最奥の部屋まで差し込みました。
その光が、並び立つ4体の像のうち、冥界と関わりが深いとされる神プタハを除く3体だけを明るく照らすように設計されていたのです。
移設にあたり、技術者や天文学者たちは新しい場所での太陽の高度や方位を綿密に計算しました。
それでもわずかな向きの差は残り、現在、光が奥まで届くのは2月22日と10月22日の朝となっています。
人類にとってかけがえのない文化遺産を、国境を越えて守る――。
この経験が、のちの世界遺産条約を生む大きな契機の一つとなりました。
世界遺産条約と日本
1972年にユネスコ総会で世界遺産条約が採択され、1978年に最初の世界遺産が登録されました。
移設されたアブ・シンベル神殿も、翌1979年に「アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群」として登録されます。
日本は1992年にこの条約を締結しました。
翌1993年には「法隆寺地域の仏教建造物」「姫路城」「屋久島」「白神山地」の4件が日本初の世界遺産となりました。
その後も登録数は増え続け、2026年7月には27件目となる「飛鳥・藤原の宮都」が加わりました。
中国大陸や朝鮮半島との活発な交流のなかで、日本に中央集権的な国家が形成されていく過程を示す遺産、というのが評価の理由でした。
再び重なるユネスコとエジプト
このように、ユネスコ80年の歩みは、アブ・シンベル神殿の救済から世界遺産条約へとつながっていました。
そして現在、そのユネスコで事務局長を務めているのが、エジプト出身の考古学者ハーリド・エルアナーニー氏です。
同氏は、エジプトの考古大臣、観光・考古大臣を歴任し、日本が円借款で建設を支援したギザの大エジプト博物館の開館に向けた取り組みにも携わった人物です。
60年以上前、アブ・シンベル神殿を守るために各国が力を合わせたエジプト。
その地から、今度は世界の教育・科学・文化を担うユネスコのトップが生まれました。
一見無関係に見える様々な出来事も、その歩みをたどっていくと、思わぬところで歴史的につながっていることがあります。
そうした発見も歴史を学ぶ面白さの一つではないでしょうか。