エデュ・プラニング国語課です。
夏休みが近づくと、ニュースやSNSで必ず話題になることがあります。
「読書感想文、ChatGPTに書かせれば一瞬で終わるじゃないか」というあの話です。
実際のところ、どれくらいのものが出てくるのか。気になったので、試してみました。
題材は、誰もが一度は読んだことがあるであろう、夏目漱石の『こころ』。
「中学生が書いた読書感想文として、800字程度で」という条件で生成AIに頼んでみたところ、こんな文章が返ってきました。
私はこの夏、夏目漱石の『こころ』を読みました。最初は難しそうな本だと思いましたが、読み進めていくうちに、登場人物の気持ちが少しずつわかってきました。特に心に残ったのは、「先生」と呼ばれる人物が、過去にしてしまったことをずっと悔やみ続けている場面です。人は誰でも、過ぎたことを忘れられずに苦しむことがあると思います。私も、友達にきつい言葉を言ってしまって、後から後悔した経験があります。「先生」の気持ちが少しわかる気がしました。 ……(以下続く)
なるほど、と思いました。誤字脱字はなく、文の長さも適切で、起承転結もある。「友達にきつい言葉を言ってしまった」というそれらしい体験まで添えられています。中学生の読書感想文として、提出されれば一見通用してしまいそうです。
ただ、教材制作の仕事で長年いろいろな文章を読んできた目で見ると、どうにも引っかかるところがあります。
うまく言えないのですが、この文章には「読んだ人の中で何かが動いた跡」が見当たらないのです。
『こころ』を読んで、なぜそこに線を引いたのか。なぜ「先生」のあの場面で立ち止まったのか。読む前の自分と読んだあとの自分でどこが変わったのか。──そういう、その人にしか書けないはずの細部が、きれいに抜け落ちています。
代わりに置かれているのは、「人は誰でも、過ぎたことを忘れられずに苦しむことがあると思います」という、
誰が書いてもおかしくない一般論です。整っているけれど、誰のものでもない。そんな印象が残ります。
これは生成AIの性能が低いからではなく、たぶん原理的な話なのだと思います。
生成AIが得意なのは、「整える」ことです。語と語のつながりを自然にする、文の長さを揃える、論旨を破綻させずに結論まで運ぶ。こうした作業は、人間が苦労する部分でもあり、AIに任せられると本当に楽になります。
一方で、AIが苦手なのは、「読んで何かが動く」という出来事そのものです。
ある一文に出会って、しばらくページをめくれなくなる。読み終わったあと、なぜか自分の中の昔の記憶が引っ張り出されてくる。それまで言葉にできなかった気持ちに、ちょうどはまる表現を本の中で見つけてしまう。──こうした、本を読んだ人間の中で起きる小さな出来事は、AIには起きません。起きないものを書くことはできません。
つまり生成AIは、「読書感想文の形をしたもの」は作れるけれど、「読書感想文」そのものは作れない、
ということになります。
そう考えると、感想文を生徒に書かせる意味も、少し見え方が変わってきます。
読書感想文の目的を「上手な文章を仕上げること」だと思っていると、AIで十分じゃないか、という結論にしかなりません。実際、整った文章を作るという一点だけで言えば、AIのほうが大半の中学生より上手です。
しかし、感想文の本当の目的は、おそらくそこにはありません。
本を読んで、自分の中で何かがちょっと動いたとして、その動きはたいてい、最初は言葉になっていません。
「なんかよかった」「なんとなく気になった」という、ぼんやりした感触のままです。
そのぼんやりしたものに、自分の言葉で輪郭をつけていく作業。これが感想文を書くということではないでしょうか。
書きながら、「あ、自分はこの場面に引っかかっていたのか」と気づく。
書き直しながら、「いや、本当に言いたかったのはこっちのほうだ」と発見する。
この、書くことを通して自分の中身を見つけていくプロセスは、AIに代行してもらった瞬間に消えてしまいます。
私は、生成AIを使うこと自体を悪いことだとは思っていません。
実際、文章を整える段階や、書き出しに迷ったときの叩き台としては、便利な道具になりうると思います。
教材制作の現場でも、AIをどう活用するかという議論は当然出てきます。
ただ、子どもたちに「AIに書かせれば終わり」とは思ってほしくないのです。
本を読んで、自分の中で動いた何かを言葉にしてみる。
うまく書けなくても、その不格好な作業の中でしか身につかないものがあります。
それを引き受けることこそが、AI時代に「書く」ということの意味なのではないでしょうか。
生成AIが書けないものは、まだたくさんあります。
そのことを、教材を作る側としても、これからも忘れずにいたいと思います。