前回の国語課ブログでは「小説」を学ぶ意義について書きました。
今回は「論説文」について、考えていることを少し書いていきたいと思います。
論説文に限らず、国語を勉強していくなかで、(特に「国語の点数が取れる人」に)よく言われるのは
「書いてあることを読むだけじゃないか」ということです。
それがそもそも難しいことだということは一旦置いておいて、
だとすれば国語の勉強はいらないのではないか、ともよく言われることです。
果たして本当に国語は「書いてあることを読む」だけの学問なのでしょうか。
論説文と、その前段階にあたる説明文で学ぶことは、ただ読むことだけなのでしょうか。
国語を学ぶ意義として、
私は「思考において具体と抽象を行き来できるようにすること」があると思っています。
論説文の前段階で学ぶ説明文では、非常に具体的なものごとの説明を読むことになります。
ある生物の生態やある国の風土について、特定の言葉の使われ方など、
まずは具体的なものごとをきちんと理解することから国語の勉強は始まります。
これが小学校高学年や中学生からは、やや抽象的なものごとを扱うようになっていきます。
生物的な話題であれば、特定の生物の生態ではなく種全体の話や自然環境とのつながり、
言語分野であれば、文化に根差した言語の使われ方や言語自体の扱われ方などが話題となることが多くなります。
大学入試の現代文では、文化論や芸術論、哲学といった非常に抽象的な文章を読み、
それを理解する必要があります。それらを理解するためには、抽象的に書かれた本質だけでなく、
具体的な説明をそうとわかって読み解くというプロセスをたどります。
そして具体的な説明から徐々に文章の要旨にせまり、抽象的な結論を読み取ることになります。
ここで大事になってくるのが、「具体から抽象」を、「抽象から具体」を理解する力です。
どこが具体例で、どんなことを説明するためにその具体例を示しているのかを理解すること、
そして理解したことを他のことがらに具体的に応用して考えられるかどうかです。
前者は問題を解くときにも重要です。
ただ、後者は問題を解くときに重要になることもありますが、
どちらかというともっと本質的な「学ぶ意義」につながるのではないでしょうか。
社会に出て仕事をする、何かのルールを理解する、
そのようなときに必要になる能力は書かれたことを四角四面にそのまま受け取る力だけでなく、
そこから別の局面にそれを応用する力です。
そのためには「具体と抽象」を行き来する思考法が必要になってきます。
書かれていることを読み取る能力、これが身についていることは前提として、
そこからさらに書かれていないことにも応用できる能力。
これを身につけるためにも国語の教材は大切なのではないかと、個人的には考えています。