私は学習塾で国語を教えていたことがあるのですが、そのとき初めて受け持つクラスで一番はじめに必ず「なぜ国語を勉強するのか」という話をしていました。先生を辞めたあとも、定期的に考えることです。高校教科書の改訂が行われる際、「現代の国語」の教科書から「小説文」が消える? と話題になったときも、やはり「国語で勉強するのは何なのか」ということを考えさせられました。「論説文」や「実用文」に比べると、やはり「小説文」はそこから何を学ぶのかということが分かりにくいように思いますし、その分「何を学べるのか」という疑問も出やすいのではないでしょうか。
ちなみに、私は国語を勉強する理由として、人生で面白いと思える瞬間を増やすため、ということを挙げていました。一番の理由ではないかもしれませんが、もし国語の授業をする機会があれば、今でもこのような理由を生徒に伝えると思います。だって、面白いことは多ければ多いほどいいでしょ? と生徒に話すと、それはまぁそうですけど……という顔になっていたことを思い出します。言語として表されていること(もしかしたら言語化されていないものまで)を余すことなく受け取る能力をつける。これが国語を勉強する意味ではないでしょうか。
昔インターネット上で、揚げものの盛り合わせに「春はあげもの」と書かれたPOPが貼られている画像を見て、大笑いしたことがあります。これは、国語の勉強で「枕草子」を知っていることを前提としたユーモアであり、「春はあけぼの」という一節を知っているからこそ面白いと思えたわけです。(この辺りで生徒たちはなるほどなぁ、という顔をしてくれていました。)知識があるからこそ受け取れる「面白さ」も世の中にはたくさんあります。当然知識をつければ「面白さ」以外の情報も多く受け取れるようになるはずです。
知識をつけるのであれば、やっぱり「論説文」や「実用文」だけを学べばいいんじゃないか、という疑問も生まれてきます。(例に出した「枕草子」にいたっては古典ですしね。)面白さという面だけを考えても、「小説文」を学んで、面白いと思う瞬間が増えるのか、それって読書好きの人が読書の瞬間に面白いと思うだけじゃないの? という疑問も出てくるでしょう。そこで私が知ってほしいことは「小説文」の読み方を勉強することで身につく能力は、他の媒体を楽しむときにも発揮されるということです。
私はゲームもアニメもマンガもそれなりに好きな方なのですが、好きなマンガの中で「川」の表現が素晴らしいものがあります。主人公が住んでいる町が川に囲まれているため、風景として川が描かれることが多いのですが、その川の表情の多彩なこと! 何気なく読み飛ばしても、当然そのマンガの良さは損なわれないのですが、「小説文」の読み方として「情景描写」を学んでいると、描かれた風景から心情をより深く味わえるわけですね。ちょっと前に見たアニメでは、登場人物の少女が、何気なく髪につけたリボンに触れる動作が描かれていました。作中で明言されることはありませんでしたが、その動作の意図・意味がわかった瞬間、痺れるような衝撃を受けたことを覚えています。
つまり、書かれていることから、それ以上のことを正しく受け取る能力。これを身につけるのが「小説文」の意義ではないでしょうか。私が生徒に話すときには、わかりやすくするために「面白さ」に寄った説明をしていましたが、いわゆる「非認知能力」を高めるのが国語の役割の一つだと思います。
物語を楽しめるようになること、物語の楽しみ方を知ること、物語の読み方をきちんと知ることで、ものごとの受け取り方を学ぶことができる。だからこそ、「小説文」もきちんと学んでほしいと思います。「現代の国語」の教科書でも、当初は「小説文」は掲載する余地がないとまで言われていたようですが、結局半数近くの教科書が「小説文」を掲載しています。「小説文」を勉強することが、やはり国語能力として必要だと思われている証拠だと思います。
小説にふくまれている表現を読み取る能力から、世の中にあるさまざまな事象を読み解く能力へ広げていくこと。そのような学習が望まれているのではないでしょうか。